いっぷぐ話
夢
2025-06-27
寝ているときに見る夢
たまに、夢を見ていて、
あっ今からがいいところだったのに!
というタイミングで目が覚めることがあります。
悔しくてもう一度寝る素振りをしても、ほぼ続きを見ることはありません。
逆に怖い夢で目が覚めて、あ~良かった。という日もあります。
科学の進歩で、将来は見たい夢だけを見られるようになることを期待します♪
で、つい先日、NHKの【チコちゃんに叱られる!】という番組で、『夢』についての特集がありました。
(以下、番組の内容と解説を一部抜粋します。)
現在の『夢』という言葉は、睡眠中に見る夢と、将来の夢(未来への希望)という意味で使われてますが、
江戸時代までは、「睡眠中に見る不思議な光景」という意味だけだったそうです。
江戸時代は、生まれた家柄や身分制度によって、将来の道がほどんど決まっていたため、
「自分は将来こうなりたい」という『夢』を持つということ自体が無かったそうです。
農民の子は農民、商人の子は商人みたいな。
明治時代になり、身分制度の廃止や交通網の整備、教育機関の広がりなどにより、人々は生まれた
家や土地に縛られずに職業を選ぶことができるようになり、『夢』という言葉が未来への希望や目標を
意味する『将来の夢』としても使われるようになったそうです。
将来の夢
さて、すでに「やや将来真っただ中」となった今現在、子どもの頃の私の『将来の夢』ってなんだっけ?
と、振り返ってみました。
が、コレと言って思い出せません。(なかったのかも)(^^;)
学校から帰れば、田んぼ野球や缶蹴り、ざっこへめ、自転車乗り、と遊び疲れ果て、ホントに
「睡眠中に見る夢」だけだったかもしれません。
朝、目が覚めれば、宿題が終わらない日でも、学校に行く前に裏の川で釣りをしてから登校していました。
家から徒歩1分で行ける裏の川は、春にはイワナも釣れる絶好のざっこ釣りポイントでした。
ところが、中学生の時、私にとって最高の遊び場だったその川で護岸工事が行われ、たくさんいた
ニガザッコや、春に釣れたはずのイワナがいなくなってしまったことがありました。
怒った私は、当時の市長様宛に「川の工事をやめろ!」と陳情書を書き、部落の区長をしていた私の
じいちゃんに、内容を明かさずに、市役所に届けてもらいました。
後日、部落の新年会だかで市長様から「図書券」をいただき、私のムダな抵抗は簡単に抑え込まれました。
高校に入ってからも至るところで工事が行われ、「なぜ川の工事が必要なのか」をどうしても知りたくなり、
それを学ぶため、(ギリ手が届きそうな、かつ、都会に行って少々遊べそうな)「土木工学科」のある
大学を目指しました。
運良く所属できた研究室の教授が、都市河川(主に隅田川)研究の第一人者であったため、都会を流れる
川の歴史、川を中心とした町づくり、治水・利水・親水について、たくさん学ぶことができました。
ここで学んだことを活かしたいと思い、土木設計コンサルタントへの就職を希望しましたが、時は就職氷河期。
「この度はご縁が無かった。。。」の連発で、あえなく撃沈。
就活も終盤。その時、教授から、「地元に戻って活かしなさい。」との助言をちょうだいし、山形県内トップ
の土木建設会社を受験。はじめて最終面接まで行き、緊張のあまり、いただいた麦茶をワイシャツにこぼす
失態をおかしながらも、私だけを拾っていただきました。(同期ゼロ)
「川の工事をやめろ!」と言っていた人間が、大学で川の持つ機能の重要性を知り、建設会社に入社して、
「川を工事する」側の人間になりましたが、施工管理という立場で自然破壊ではなく、人々の生活を守りつつ、
自然環境をも守ることを心掛けながら仕事に取り組みました。
(”恵まれた自然と産業との調和をめざして”というのが会社のキャッチコピーでした)
山形市内のアパートで暮らし、子供も生まれ、まもなく30歳を迎える頃、じいちゃんが亡くなりました。
じいちゃんは毎週末になると「今週はヤロだ帰って来ねのが~?」と言っていたそうで、子供(ひ孫)を
連れて帰って来るのをいつも楽しみに待っていたようです。
それを聞いて、尾花沢に帰って、おばねで仕事すっかなわ。と少し考えるようになりました。
責任の大きい大変な仕事でしたが、すごくやりがいがあり、上司や先輩方からはとても可愛がってもらい
(イイ意味で)、後輩たちも声を掛けてくれるし、とても充実した毎日でしたので、すごく悩みましたが、
じいちゃんの一周忌が過ぎたのを機に、思い切って尾花沢に帰る決意をしました。
当時の社長からは、
「私は、貴方が家業を継ぐために貴方を育てたつもりはない。ここは学校ではない。
でも、自分で決めたのなら精一杯頑張ってみろ。それでダメならここに戻ってくればいい。」
と、厳しくも温かい言葉で送っていただき、涙をこらえながら退社しました。
30歳
満を持して、意気揚々と旭屋設備に入社しました。
が、ここで今までにないくらいの挫折を味わいました。
いくらこれまでやったことのない作業とはいえ、なんぼ真剣に取り組んでも、旭屋設備の社員の配管技術
とスピードには、到底敵わず、手元(手伝い)作業が精一杯。何回も、
「ほがいんねべず~。」「この前したばんだべず~。」「はいずの材料んねず~。」「どれ代われ。」・・・。
そんな毎日でした。(T_T)
今までやってきたことが何も通用せず、全てが途切れてしまった感じで、悔しくて眠れない日もありました。
そんなある日、一緒に下水道接続工事の作業をしていた先輩社員から、
「ちぇっと、レベル(測量)見てけろ。」と依頼されました。
(ん!?これなら、俺スゲー得意なやつ!!)
間違えずにできたことで先輩にもちょっと褒めてもらいました。
入社当時、尾花沢市内では、宅内の下水道接続や合併処理浄化槽設置の工事が盛んに行われており、
着工前と完了時には、測量し図面を書いて役所に提出しなければならず、そういう(配管以外の)仕事は
苦手だと皆が言うもんだから、喜んでそれらの仕事はすべて引き受けました。
んだって、前の会社では毎日のように座標計算し、測量して丁張をかけてきた私からしたら、この程度の
測量と図面くらいは(正直、簡単すぎて)何軒でも同時にこなせる自信がありました。
そういった仕事をさせてもらえるようになり、ようやく旭屋設備での生きる道を見つけることができました。
さらに、完成した図面が増えれば増えるほど、尾花沢の川がキレイになっていくんだなという喜びも湧き、
仕事を通じて、川が好きだった少年時代を思い出し、やる気も復活していきました。
2011年の東日本大震災の時は、泊まりこみで仮設住宅の建設から高台移転の上下水道工事などに携わり、
被災された方々からも「ご苦労様です。」と励まされ、『必要とされてる仕事なんだな。』と身をもって
感じることができました。
これまで、挫折を経験する度に、『夢』とまではいかなくても、ちょっとした目標を定め、いろんな方から
の助言もあり、その都度、喜びを見つけて乗り越えてこれたような気がします。
今では、社員の人達から、
「こごどうすっどいい?」「図面見せでけろ。」「連絡しったが?」「こご教えでけろ。」
と頼ってもらえるようになりました。(#^.^#)
45歳
令和7年6月吉日。
この度、私は旭屋設備の2代目として会社を引き継ぎ、代表に就任することになりました。
未だに配管技術は社員には到底及びません(というか諦めました^^;)が、
チームとして、その腕のイイ技術者を皆さまの所へ送り出し、その力を十分に発揮できる体制をつくる
ことが、私の一番の仕事だと思っております。
決して江戸時代的な跡継ぎではなく、私のこれからの『将来の夢』のひとつとして、創業者である親父の
想いも引き継ぎながら、必要としてくださる方々に喜んでいただけるよう取り組んでまいりますので、
今後とも、チーム旭屋設備をどうぞよろしくお願いいたします。
(有)旭屋設備
代表取締役 佐藤稔幸






